ビジネスを始める前に100冊読む⑬

ナップと諭吉と栄一の本 その他資格・書評

見ていないのですけど、今年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公は渋沢栄一ですね。

そして、2024年あたりから一万円札の肖像画が、福沢諭吉からこの渋沢栄一に替わるとのこと。

学生時代の社会の勉強で出てくるご両人ですが、その人となりを知る著書はきちんと読んだことがなかったので、いい機会ですから読むことにしました。

まあ、実は大学生の頃だったか、岩波文庫の「学問のすゝめ」を図書館で借りたか、古本屋で買ったかは定かではないのですが、手にした記憶だけあります。

で、始めは勢い勇んで読み始めても、文語体だったのでトーンダウンしてしまったという記憶だけありますw

ま、そのときは読み進めても、バブル期の大学生の脳みそだったので、私はほんとの内容を理解するレベルに達していなかったと思います。

 

このご両人のバックボーンを見ると、

福澤は下級武士出身で、だからこその武家の精神構造が社会の進歩の妨げになっているとしていて、

渋沢は豪農の出ですが、超えられない身分の差を感じ、だからこそ武士になりたくて、尊王攘夷思想に傾倒する志士になったり、江戸時代が終わって明治政府の官職に就きそして実業の世界へとなったようです。

 

物事にあたる上で、この二人の大きな違いは、儒教に対する考え方でした。

福澤は、儒教にも良い部分はあるにしても、朱子学に見られるような為政者の都合のために民衆を愚としてコントロールすることは、今後の世の中には大きな弊害になるとしていたようです。

渋沢は、儒教にも今の時代(=大正時代)に合わない部分があるにしても、儒教を中心とした社会構成が良いとしていたみたいですね。

渋沢が儒教の弊害も一部認めているところとは、例えば江戸時代に書かれた儒学の書物「女大学」の考え方は、女性の活躍の面で欧米の文化と比べると遅れているなど、これからの日本にとってよろしくないとしています。

ちなみに、その「女大学」では、女性は家や夫に従属する立場で、控えめに生きていくのが美徳だと、そのように仕向けている書物です。「不妊だと家から去れ」とか「主人を君主として仕えよ」など、フェミニストが読めばすごく立腹する内容みたいです。

でも、この令和の日本においても、女大学に書かれていることが美徳として、女性の人権が未だ男性と同じようになっていないところもあると感じられる部分はあるし、田舎の年配の女性などは、自分が夫を立ててそのように生きてきたからでしょうけど、女性がその江戸時代のエッセンスを維持して生きた方が良いと思っているフシもあるとかないとか。

 

ちなみに我が家は、行き過ぎた進歩的家庭ですので、奥様を君主として私が仕えております

 

人口の半分を占める女性の活躍を進めよう、女性の人権を重んじようと渋沢は言っていたようですが、まあ、大正時代に書かれた時代背景を含んでみたとしても、渋沢はお妾さんをたくさん囲っていたようですね。ま、この辺りは、いまいち説得力がないような気がします。

 

で、福沢にしても渋沢にしても、プロの書評家が多くの本を出しているようです。私のは初めて読んだ人間の感想文ですので、それは違うぞというところがあろうかと思いますが、ご容赦のほどを。

 

もう一冊は、ハーバードロースクールで教えられている交渉術のエッセンスと心理学を混ぜて教えてくれる本になります。

 

現代語訳学問のすすめ|福沢諭吉・齋藤孝訳|ちくま書房


現代語訳に直されたのは、テレビでもおなじみの齋藤孝先生です。「雑談力の上がる話し方」を書かれた先生ですね。読みやすいです。

この本の時代背景は、近代日本が成立してすぐに書かれていますから、甚だ貧弱な日本国が欧米の侵略から守るためには、欧米のいいところを取り入れて、対等に渡り合える国力を持たなければなりませんでした。
ですので、そういう制度の改革の足かせとなる江戸時代の封建制度の精神やそれを思想的に支えてきた儒教の弊害を多く書いています。要は、狭いところで威張っている場合ではないということです。
ま、その時代背景もあったのか、実学至上主義的なお考えのようで「実」にならない学問を否定されています。令和の時代はエンタメも一つの巨大産業=「実」になっていますね。

 

この本によると、福澤は、明治七年つまり1874年=147年前に、現代日本でもいまだ問題になっていることを突いています。
例えば、福沢は、男尊女卑の弊害を述べていて、妾の風習を批判しています。渋沢には耳の痛いところです。

また、今風に言えば「毒親」と言われる親の「生んでやったから面倒見るのは当たり前」という親孝行の強制も批判しています。

 

あと、忠臣蔵の物語に至る思考とそれをヒーローとして扱うことを痛烈に批判しています。
つまり、日本人のメンタリティと遵法精神の弱さを突いています。
確かに法を治める側の武士階級が法を犯して「侠に生きるの精神」が世間でもてはやされるのは、社会の未熟さを表していて、おかしな話ですね。

今まで、なんにも考えずに忠臣蔵の時代劇を見ておりました。

 

現代語訳論語と算盤|渋沢栄一・守屋淳訳|ちくま書房

三菱の岩崎弥太郎のように、ワンマンな専制君主として事業を統括しようとせず、独占を嫌い財閥を形成せずに、人材や資本をあらゆる産業に広げていって、日本国全体のレベルを上げていこうとされていたようです。この点は人間的に素晴らしいと思います。
これは儒教のいい面として、過度に私利私欲に走らないことを述べています。

 

儒教を基本に据えるといっても、時代に合わないところや、倫理的におかしいところは、渋沢も批判しています。
例えば、福沢と同じところですが、親孝行を親の方から「やってくれ」というのはおかしいとしています。親の思い通りにならない子供を「親不孝者」とするのも同様に、です。

 

私が儒教に対してモヤモヤするところは、「道徳」という為政者が民を統治するための徳としての王道が、いつしか民をコントロールする思想になっていくところです。
そして、為政者を離れて、企業の社長とか中間管理職や、学校の先生や親に「日本の教えは昔からこうだから、いうことを聞け!」となるところです。
それが違法行為であっても、伝統という名の強迫によって、似非儒教の精神が法より強くなってしまうところです。

令和の今なお、旧日本軍的な組織運営をしている企業や高校・大学の体育会があるのは、この儒教の教えが、強迫観念に利用しやすいからだと思っています。

上司、先輩より、先んじてはいけないとか、会社に滅私奉公せよとか、忠誠を尽くすとかが未払い残業やパワハラに変化して、その権利侵害の行為が、儒教の美徳によって見えなくなってしまうのは恐ろしいことです。

そもそも、武士も御恩があるから奉公していたわけであって、御恩がないのに(くれないのに)奉公だけ強要するのはどう考えてもおかしいですね。

 

とはいえ、法以外での社会秩序形成の必要性も感じます。難しいですね。

 

戦略的交渉入門|田村次朗・隅田浩司|日本経済新聞出版社

ハーバード流交渉術と聞くと、海外ドラマの法廷モノの弁護士などがグイグイ裁判所で弁論していることを想像していましたが、実はそうではないみたいですね。

 

相手の発言や行為によって揺さぶられることなく、こちらの当初の目的を見失わずに、合意形成することを目指すとしています。

最終的には、近江商人の「三方良し」に似たところを目指すことが最良であるとしていました。

実際の商談などで、力関係を背景にして、ゴリ押しをしてくる人間がいますが、その圧力に屈することなく、相手の要求とこちらの要求のいわゆるwinwinな関係を築くことを目指しています。

 

あと、成行きで交渉を進めていくのではなく、交渉に入る前に準備を綿密にしておくことで、心に余裕が生まれて良い交渉ができるとしています。

その準備では、相手の立場つまり相手の会社内での上司・同僚との関係、相手のお客さんとの関係などを考えて交渉に臨むこととしています。さらに、この交渉の本当の目的は何だったのかということ(ミッション)を心に持って交渉に臨むことです。

値段を決めることとかではなく、この商品のやり取りを行うことによって、社会的意義のあることをしているという自負心の視点ですね。

そこがブレなければ、相手のパワープレーによる心の動揺も少なくなり、結果的に良い交渉ができるとしています。
つまりは、交渉は「勝った、負けた」のことにしないで、お互いがお互いの最大のメリットを探っていくことで、両者が得をする関係を築くこととのことです。

 

現実問題はやっぱり感情が作用していきますので、そう簡単なことではないのでしょうけど、試していこうと思いました。

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